こんにちは、スタッフHです。
最近、興味深い本を読みました。
ピーター・メンデルサンドの、『本を読むときに何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間』。タイトル通り、本(この場合は小説です)を開いて文字を追っている時、私たちの中で何が起きているのかを様々な視点から読み解いていくものです。
登場人物を視覚化しているか?
小説の映画・ドラマ化。よく聞く話ですよね。
その時しばしばに耳にする、「イメージぴったり!」「イメージと違う……」という声。実は私には、いまいちピンとこないことだったりします。
私は多くの場合、本を読む時に登場人物を頭の中でビジュアル化することをしないからです。登場人物を「名前」として読み進めていくので、どんな目鼻立ち・どんな体型・どんな声……と、想像しない。だから、どの俳優が配役されても「イメージ通り」ではないし、「イメージと違う」こともない。
ただ、「容姿に恵まれない」「パッとしない人物」ということがその物語の重要な要素である場合、容姿端麗な人気俳優がキャステングされると「ええ〜……」ってなることはありますね。(集客や視聴率を考えると、仕方がないのかもしれませんが)
さて。
同じ文章を読んでいても、頭の中で起こることは読者の数だけある。例えば、登場人物を身近な人に置き換えて読んでいる人もいるでしょうし、俳優に置き換える人もいるでしょう。あるいは、完全ではないにしてもイチから作り上げてしまう人や……「声が聞こえる」という人もいるようですね。
メンデルサンドは、「作家は身体的特徴をあまり描写しない」といいます。身近な本を見返してみると、たしかにそう。物語に関わる重要な要素でない限り、外見の美醜、背の高さ、体型、髪の長さ……それらを事細かに描写している小説は少ない。作家は、読者に想像の余地を残してくれているのです。
私たち読者は、作家の言葉に自分の言葉を付け加えていき、描かれていない部分である余白を埋めていく。良い本は、読者の想像力を刺激する余地のあるものだ、とメンデルサンドは言っています。
イメージするものは個々で違う。同じものを読んでいても、頭の中に浮かぶものが千差万別なのは、このためですね。
ちなみに。
本書で言及されていますが、カフカは、『変身』の出版元に「虫」の外見の描写を固く禁止していたそうです。
「だめだ、絶対にだめだ! 虫そのものを描いてはいけない。遠くからの姿すら見せてはならない」
このような手紙を書いていたそう。
カフカの翻訳家曰く、カフカは読者に内側から外側を見るように虫を見てほしかったのではないか、と語っているそうです。
あなたの「虫」は、どのような姿をしているでしょうか……
(残念ながら私は未読です。今度読んでみようと思います!)
「読書」って、なんだろう?
メンデルサンドの考える「本を読むときに起こっていること」。もちろん、ここでいう読書は文字を追っていくだけのもの、ではありません。
この本の中で言われている「読書とは?」の、まず1つ目。
それは、作家と読者の共同創作的なもの、ということです。
作家は、世界の雑音をろ過して、できる限り純粋な信号を作る。
作家が〈収集→整理→管理〉したものを、私たちは提供されるわけです。
読書することによって得た作家の世界観を、自分の世界と混ぜ合わせ、読者唯一のものに変質させる。それは、私だけのオリジナルです。
それを、作者は「共同創作的なもの」と呼んでいて、これがあるから読書は「機能する」のだと主張しています。
そして、2つ目。
私たちは「要約する」ということ。
作家は文章を書くときに要約し、読者はそれをさらに要約する。それは、脳そのものが要約し、置き換えて表象化するようにできているから。私たちは受け取った情報を要約して、要約することによって世界を理解するのだと作者は言います。
要約して、理解する。これが、本を読むときに私たちの中で起こっていることです。
ブックデザインも秀逸!
メンデルサンドの本業は、アートディレクター。装幀も数多く手がけていて、もちろんこの本のブックデザインも彼自らが行なっています。
ページを開けば主題に沿った趣向が凝らされていて、まさに読書を「体験」できる。押したり引いたり、一ページに印象的な文章が一文だけぽんと置いてあったり。文章に抑揚があって、舞台を見ているような気持ちになります。
私は本を読む時、今まで目で文字を追うだけのこともありました。「読みにくいな」と思う本(翻訳ものや、昔の文豪が書いたと言われるような本)です。あまり想像力を働かせず、ただ文字を追っていくだけで、はっと気がつくと、本の中で迷子になっている。
ここがどの場面か、誰が話しているのか、登場人物の関係を全く理解できていない……メンデルサンド曰く、それは「空虚の中の読書」です。
これからは「機能する読書」を意識して、本を読んでいきたいと思います!