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純粋な男を通して
現代を見つめる映画『馬を放つ』

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この春は、アカデミー賞関連作品も多く公開されるなど注目作が目白押し。観るべき映画が多すぎて大変です。

「ウィンストン・チャーチル」や「ペンタゴン・ペーパーズ」など話題作はたくさんあるのですが、そのあたりは多くの人がおすすめしていて情報もたっぷりあると思うので、ここg-logでは観る人が少ないであろうキルギスの映画『馬を放つ』をご紹介。

馴染みのない国、キルギスに触れられる

キルギスの映画というものを今回初めて観たのですが、映画云々以前に多くの日本人にとっては、キルギスって聞いたことはあるけど馴染みがなく中央アジアのどこかにある、くらいの認識なのではないでしょうか?

この程度の知識しかなくて(おそらく)一生行くことのない国ですが、映画を通せば一時的ではあるが、ある種の愛着をもってその国の人々や文化・歴史に触れられる。
これが異国の映画を観ることの最大の良さではないでしょうか?

キルギスは、旧ソビエト連邦の国で首都はビシュケク。
宗教は75%がイスラム教、20%がキリスト教正教会。元々は遊牧民で、当然馬との結びつきも強く、山岳と草原の美しい国。

冒頭、その草原で夜に馬を走らせるシーンが本当に美しいんです。

そんな素朴な地でも、現代を生きる人間は昔とは変わってきています。
それがこの映画のテーマともなっています。

昔々、馬は人間の翼だった

“昔々、馬は人間の翼だった”。これがこの作品のキーワード。キャッチコピーとしても使われています。

↓ストーリーを公式サイトより引用。

キルギスのある村。村人たちから”ケンタウロス”と呼ばれている物静かで穏やかな男は、妻と息子の3人でつつましく暮らしていた。しかし、そんな彼には誰にも明かせない秘密があった――。 彼はある理由から、キルギスに古くから伝わる伝説を信じ、夜な夜な馬を盗んでは野に放っていたのだった。次第に馬泥棒の存在が村で問題になり、犯人を捕まえる為に罠が仕掛けられるが…

主人公のケンタウロスは、純粋だが裕福ではなく結婚するのも齢をとってからで、その気はまったくないのによその女性と仲良くなって浮気を疑われるなど、古い寓話の主人公よろしく愚者のようなキャラクター。奥さんは聴覚障害があって喋れず、息子は5歳になってもまだ言葉を発せない。
こういった設定は何を意図しているのかわかりませんがかなり寓話的。

主人公は、最初から最後までその愚直なまでの純粋さを見せます。

素朴なキルギスの村とはいえ、現代では人間と馬の関係も昔とは変わってきています。それゆえ上記ストーリーにあるようにケンタウロスは人が所有する馬を盗んで野に放っていきます。
盗んだ馬を逃がすためにその馬にまたがるケンタウロス。その姿は失われた人間と馬の関係を取り戻したかのように一体感があり神々しい。

この映画は宗教的な要素もポイントです。ケンタウロスは伝説にこだわりながら、一方で神・宗教には興味がない。積極的な無神論者というふうでもないですが、イスラム教の伝道師たちとも上手くいきません。
また、この伝道師にもう一人愚者(もしくは愚者を装っている)を設けているのことがこの映画をアイロニカルに見せていて興味深いので要注目です。

能動的な鑑賞がこの映画を昇華させる

さて、ケンタウロスのキルギスの伝説にこだわった行動をどう受け取ればいいのでしょう? テクノロジーや商業主義を批判して“昔はよかった”と受け取るのか?しかし、昔の人だって人間の利益のために動物を利用していたという点では変わりません。

“馬を放つ”という意味を、一方的な意味の受け取りではなく、自ら考えてみることで多方向的な視点を与えられる。
監督の意図がどこにあったのかはわかりませんが、公式サイトの著名人によるレビュー&コメントページにあるような「牧歌的」「伝説」「遊牧民の血」といったキーワードだけで読み解いていこうとすとつまらないと思うのです。

人間の歴史とは?これからどう歩むべきなのか?
そして、人間とはどういった存在なのかを考えてしまう映画なのです。


そうそう、このキルギスの監督、アクタン・アリム・クバトは主人公ケンタウロスも演じていますが、この演技と雰囲気も見事でした。

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